発行日:2021年5月14日

キャンプ座間への米陸軍第1軍団の移駐を

歓迎しない会ニュース No.89

電子版


 
キャンプ座間の米軍ゴルフ場はいつから存在するのか?

 ゴルフボールの飛び出しが再び確認されたキャンプ座間のゴルフ場。プレーヤーのほとんどが日本人であり、米軍人の福利厚生施設とはいえない現状をみると、ゴルフ場部分だけでもすぐに返還しろと言うべきではないでしょうか。
 ところで、このゴルフ場、いつから存在しているのか? 在日米陸軍のホームページで調べてみたところ、キャンプ座間に米極東陸軍司令部が移転してきた頃に作られたようです。
   https://www.usarj.army.mil/about/history/#en

 以下、関連する記述を簡単に紹介します。
 “Brief History of U.S. Army Japan”(「在日米陸軍の歴史」)の最初に、「在日米陸軍の歴史は米極東軍の時代まで遡ります。米極東軍は1941年7月26日にフィリピンのマニラで編成され、その後1942年3月にはダグラス・マッカーサー元帥の指揮のもと、その司令部をオーストラリアに移転しました。終戦後司令部は東京に一度移転され、1950年には横浜、そして1953年10月に現在の所在地キャンプ座間に再移転されました。」とあります。
 1953年といえば、サンフランシスコ講和条約が発効(1952年)し、米軍占領から日米安保条約による米軍駐留に移行した時期であり、同時に朝鮮戦争が休戦となるが、まだ日本が後方基地としての役割を担っていたときでもあります。
 そして、「1950年代のヒストリー」の冒頭には、
「1952年にキャンプ座間南部分で火事があり、旧(日本軍)陸軍士官学校の建物5棟が焼失した。ちょうどその頃、横浜の米極東軍司令部は、移転先を探しており、司令部庁舎(101)を建設して1953年に移転してきた」
「1954年に極東陸軍に第9軍団(Ⅸ Corps)が配置されると、基地の北西エリアに1500フィート(約457m)の滑走路をもつ飛行場が造られ、林であったところが“チャペル・ヒル”住宅住区となり、旧陸軍士官学校の練兵場跡はゴルフコースとなった。」(抄訳)
などの記述があります。その後も何度かコースの変更はあったようですが、1954年頃からゴルフ場は存在していたということが分かりました。
(M.N.)



1960年代中頃のキャンプ座間ゴルフコース

https://www.usarj.army.mil/about/history/#en より



[報告]

2021.3.27

キャンプ座間ゴルフ場 現状調査を実施
多くの日本人プレーヤーを確認

 3月27日(土)、歓迎しない会の呼びかけで、キャンプ座間ゴルフ場を周辺の公園や道路から調査を行なった。
 小田急線相武台前駅を朝9時30分集合であったが、事務局メンバー6名、仁科なつ美相模原市議、一般参加4名、それに朝日新聞記者1名とテレビ神奈川記者1名が加わり、計13名の参加者が集まった。
 一行は、まず「相武台ふれあい広場」へ向かった。この広場で、金子共同代表が、かつてのゴルフボール飛び込みと、ゴルフ場ネットの嵩上げについて詳しく参加者へ解説した。また広場からゴルフ場のプレーヤーのほとんどが日本人であることを確認した。キャンプ座間での日本人プレーヤーによる経営維持を説明し、この現状から、キャンプ座間のゴルフ場の必要性の無さを強調し、その返還を求めることを参加者へ金子共同代表は強く訴えた。

 続いて一行は、広場からゴルフ場沿いの道路を歩き、昨年の9月並びに今年の3月にゴルフボールの飛び込みがあった住宅地周辺へ移動した。それら飛び込みの報告と、嵩上げしたネットに老朽化により空いた穴を観察するなどをし、解決したはずのゴルフボール飛び出しが今もなお続いている現状を参加者と共に確認した。
 更に一行は、かつて同様にゴルフボールの飛び込みが多発した新磯野西公園、相武台中学校を見ながらゴルフ場沿いを歩き、「キャンプ座間第7ゲート」へ到達した。
 相武台中学校でも2008年当時、ゴルフボール飛び込みが多発し、2009年1月には部活中の生徒の間にボールが落下、直撃事故はまぬかれたものの、同校PTAがゴルフ場の営業停止を相模原市に要請するなど大問題となった。
 ここでいったん解散とし、その後有志で、一昨年10月に米軍ヘリ着陸時の強風により被害を受けた「電商相模」を訪問し、調査を終えた。



相武台ふれあい広場にて説明を聞く


この日は好天で多くのプレーヤーを見ることができた

 一般参加者である20代女性に終了後感想を尋ねた。
 「キャンプ座間周辺を歩くのは初めてで、近隣の住民、住宅地の困りごとや抱いている思いを、解説を聞くまで、同じ(相模原)市民でも想像できなかった。」と述べた上で、「ゴルフ場問題の解決へは、(ゴルフ場の)歴史的背景や、実際の被害などの情報を、(キャンプ座間に)関係ある人、そうでない人、どちらにも届けて、話し合っていくことが必要だ。」と述べた。
 今回の現状調査は、キャンプ座間のゴルフ場問題について、過去の事例と現在の事例を現地から理解できる構成となっており、とても有意義であった。
 今後とも毎年1回以上は実施していきたい。
(松本貴裕)

 


[報告]
.2021.5.5

キャンプ座間フィールドワーク 2001春 を実施

 毎年春と秋に行っているフィールドワーク。今回は2年ぶりにキャンプ座間の座間市域側であるサウスキャンプ周辺へ行きました。集合場所の相武台前駅には予想以上の17人が集合。密にならないよう間隔をとりながら、まずは市民体育館横の大坂台公園へ。ここは1991年に返還され体育館と共に整備された公園で、2016年に返還されたキャンプ座間チャペル・ヒル住宅地区(約5.4ヘクタール)に隣接しています。同地区のうち総合病院と消防庁舎、自衛隊宿舎は先行して整備されました。総合病院は2016年に開業しましたが、その際に市と交わされた協定書には、10年間は座間市が国に対して賃借料を支払う旨が書かれています。その額は2021年度予算では約1300万円となっていますが、その事実を知っている市民は少なく、返還地利用の仕方について周知の必要があると考えます。
残る公園用地は未だ工事中で、人工芝の多目的広場やパークゴルフ場などが整備され、2021年度中に完成予定となっています。総事業費8億8000万円のうち、防衛施設周辺対策事業補助金(キャンプ座間返還地公園等整備事業)として国から5億2500万円(補助率59%)が出ています。大坂台公園の展望台からは整備中の土地がよく見えました。



大坂台公園から2016年返還地方向を望む
(公園整備の工事中)


座間公園からキャンプ座間内米軍庁舎を望む

 大坂台公園を出て県道51号線(通称行幸道路)を下り、基地のフェンス沿いを歩きました。フェンスの向こうには旧陸軍士官学校時代の講堂など古い建物が見えます。ゲート前で記念撮影した後は目の前にある富士山公園に行きました。ここは陸軍士官学校だった当時に使われていた方位盤の土台が現在も残っています。当時生徒たちは、ここから皇居や明治神宮、伊勢神宮などに向かって遥拝していたと聞きます。
 富士山公園南側の出口から、キャンプ座間南側のフェンス沿いを散策。フェンス越しには在日米陸軍司令部の入るリトルペンタゴンやパラボラアンテナを積んだ車両などが見えました。その後は湧き水の流れる「番神水」の横を通り、「平和の小径」を抜け、座間公園南側の「平和坂」に出ました。陸軍士官学校が移転してくる前の大正時代にこの名前がつけられたそうです。すぐ横のキャンプ座間内には日の丸・星条旗・国連旗が高々と掲揚され、上空には旋回飛行訓練を行う厚木基地所属の空母艦載ヘリコプターが飛んでいました。大正時代の先人の思い描いた「平和」に思いを馳せます。

 解散後、時間も元気もある5人で、キャンプ座間の地下を通る相模原市の市道・新戸相武台線のトンネルを歩き、相武台前駅まで帰ってきました。途中から小雨が降ってきましたが、無事に1万歩以上歩ききって終了。次回は秋に企画予定ですので、ぜひご参加ください。
(長瀬未紗)