キャンプ座間への米陸軍第1軍団の移駐を   
発行日:20159月29

歓迎しない会ニュース No.55

電子版


秋のフィールドワークを実施
9月22日(火・休)

 シルバーウィークといわれた連休中の9月22日に、恒例のキャンプ座間フィールドワークを実施しました。参加者は13人でしたが、初めて参加の方もいて、金子共同代表の説明も熱が入ったものになりました。前日にもヘリが飛行訓練を行っていたとの情報を得ていたこともあり、ゴルフ場を経由して、基地北側のヘリポートからがけ崩れ現場までと、欲張ったコースを歩きました。おかげで、昼に終了することができなく、最後まで歩いた人は半数くらいでした。
 相武台前駅を出発して、最初に基地の中に見えるのがゴルフ場です。今は異様に高いネットで囲まれ、ゴルフボールの飛び出しはなくなったようですが、休日でもあり、多くのプレイヤーでにぎわっていました。考えてみれば、日本では連休なのですが、米軍は休みではないので、ゴルフ・プレイヤーも当然、日本人のはずです。米軍基地のゴルフ場といいながら多くの日本人が利用する、いかにもブラックな施設だといえます。
 ゴルフ場を後にして、反時計回りに基地の北側を過ぎると、基地のフェンスが山の中に入り、フェンス沿いの道が続きます。この「山道」を歩くことも恒例になっています。草や木をかき分けながら進み、ちょっとした山歩き気分が味わえるのもこのフィールドワークのよいところです。ただ、今回、一人がつる草に足を取られて転んでしまいました。幸いケガはしませんでしたが、足元に注意する必要があることを改めて実感した次第です。
 
キャンプ座間のヘリポートに着陸した在日米空軍のヘリ
 
離陸して一周コースに向かうUH-1N
 フェンス沿いにしばらく進むと視界が開け、ヘリポートの見える場所に出ます。ちょうどこの時、ヘリコプターの音が聞こえ、だんだんと音が近づいてくることがわかりました。しばらくすると、頭上から1機のヘリが姿を現し、いったん着陸して、しばらく停止した後、離陸していきました。機体には、なんと”US AIR FORCE” と書かれており、米空軍のヘリだと判明。後で調べたところ、横田基地所属のUH-1Nというヘリでした。
 キャンプ座間で空軍のヘリが飛行訓練しているところを目撃したのは初めてです。厚木の海軍ヘリが訓練しているのは何度も目にしていますが、空軍機もキャンプ座間を訓練で使っていることが明らかになりました。
この後、がけ崩れ現場を見て、工事中のトンネルを抜けて、解散となりましたが、なかなか収穫の多いフィールドワークでした。
 終わった後に、初参加の方の感想をお聞きしたところ、「ヘリの離発着を眼前で見たが、音がすごかった」(Yさん)、「中央即応集団司令部の庁舎・隊舎を完成後に見たのは初めてだが、立派な建物でおどろいた」(Oさん)という声でした。また、もう一人の初参加の方からは、感想と写真が寄せられましたので、次に紹介します。(松本憲明)


キャンプ座間フィールドワークに参加して

 9月22日に催された「キャンプ座間フィールドワーク」に初参加した。好天に恵まれたハイキング日和だが、基地めぐりは単純に楽しくとはいかない。案の定、小田急線相武台駅を出発してまもなく、第4ゲートでは守衛さんに「写真は撮らないでください」と叱るように言われた。「写真ではなくて動画なんですけど」みたいなへ理屈は言わず、彼とゲートをサラッと撮影してから、おとなしくスマホをしまった。
 それから基地の周りを北回りに歩く。しばらくは米軍のゴルフ場で、低いフェンスの外側に高さ40㍍もある巨大フェンスが建ち並ぶ。この周辺では長年にわたってゴルフボールの飛び出しが続いたため建てられたのだという。費用は3億円超。「思いやり予算」つまり日本国民の税金が費やされた。
 周辺の公園にはゴルフボール飛び出しに関する注意看板が立ち、新磯野保育園は園児をゴルフボールから守るために私設のフェンスで建物を覆って自衛していた。
 
キャンプ座間の外周フェンス沿いに進む
 
キャンプ座間ゴルフ場の防球防球ネット
 第4ゲートから1・5キロほど歩くとゴルフコースが終わり、基地は丘陵の上、周辺はがけ下という地形になる。基地の北端あたりが米陸軍ヘリポートだ。この日は、米空軍のヘリが離着陸訓練をしていた。フェンス越しに覗いていると爆音とともにヘリが降下してきて着陸、しばらくエンジンをかけたまま地上に留まった後、再び轟音とともに離陸、これを2度繰り返した。
 周辺には住宅も建ち並んでいて、騒音被害も日常に及んでいる。ヘリの着陸は以前も散歩中に見たが、その時の記憶では、陸軍の大型ヘリの場合はさらに騒音レベルが高いと思われる。
 ヘリポートから基地の西側をさらに進むと、立ち入り禁止の立て札が尾根道に立てられていた。クモの巣を掃ってさらに進むと、フェンス脇の土手が銀色のシートで覆われている。昨年10月に起きた崩落の現場だ。台風により崖崩れが発生し、基地フェンスの手前1メートル付近から幅約10メートル、高さ20メートルにわたって崖をえぐるように崩落し、フェンスや土砂が下の市道まで流れ出たという。
 
キャンプ座間フェンス沿いの崖崩れ現場にて
 楽しく見学とはいかない基地ツアーだが、やがて縄文遺跡で全国的に有名な勝坂地区に入ると、神社や寺など歴史的建造物が増えてきた。縄文遺跡は水利のある高台に出土することが多いことを考えると、基地が占有するこの丘は縄文時代から、つい戦前まで、われわれの祖先が5千年以上にわたって暮らしを営んできたに違いない。
 思えば、ここに士官学校など軍事施設ができたのは76年前の1937(昭和12)年。相模と武蔵が眺められる士官学校を昭和天皇が「相武台」と命名したという。
 疲れた脚で、この奇妙な壁の道を歩きながら考えた。厚木基地、相模総合補給廠しかり、軍事基地というものは周囲にさまざまな迷惑を及ぼすものだ。私は産業人のはしくれであるから、ものごとの判断基準に経済効果を重視する。そうしてみると軍事基地は「壮大な無駄」だなあと思わざるを得ない。
 この施設は米国民や日本国民の税金で運用されているわけだが、172・5ヘクタールの広大な土地に有刺鉄線を張り巡らせて人々の通行を阻む。時には納税者に銃口を向ける。普通の町村なら工場や商業施設、農地など、人々の暮らしに役立つ商品を生産し、快適なサービスを提供するのに、ここでは何も生産せず、サービスも提供しない。
 基地が返還されたなら、さまざまな企業を誘致して新たな産業の生産活動による市民生活への寄与があるだろう。公園や史跡などの整備が教育、文化そして国民生活を豊かにしていくだろう―などと考えながら約9キロの道のりを歩き終えた。(W)



相模総合補給廠の火災・爆発に抗議と申し入れ


 8月24日に相模総合補給廠で発生した倉庫の火災・爆発事故について、補給廠監視団、歓迎しない会、神奈川平和運動センターなどと市民有志は、8月31日、補給廠ゲート前に集まり、在日米陸軍司令官及び在日米陸軍基地管理本部司令官に対し、抗議と申し入れを行いました。以下に申し入れ書の一部を掲載します。


申し入れ書(抜粋)

 去る8月27日、貴職らは今回の爆発火災の原因究明の一環として、相模原消防局との合同調査を実施した。私たちも、この合同調査を一歩前進と考えるが、問題はこれからである。報じられているところによれば、今回の調査では原因究明までには至らず、ハワイ州の陸軍専門機関に調査究明を委ねるとのことだが、その際、地元消防局を加えるかどうかは不明とのこと。
 貴職らは相模原市消防局の調査力を高く評価するとしているが、それなら、今後も同市消防局に参加を求め、原因究明作業を行うべきである。一回限りの、形だけの合同調査では、今回の爆発火災で失った市民からの信用を取り戻すことはできないであろうことを伝え、改めて次のことを申し入れる。

 ===記===
 1 今回の爆発火災の原因究明作業に、相模原市消防局の要員を加えよ。
 2 相模総合補給廠に貯蔵、保管される可燃物、危険物、有害廃棄物の内容を明らかにせよ。
 3 それら可燃物、危険物、有害廃棄物の取り扱いについて日本国の法令に従え。
 4 相模原市消防局など担当部局の定期的な立ち入り検査を受け入れよ。

 上記申し入れ書にもあるように、事故直後の27日に相模原市消防局も加わり、米軍と共同で調査を行った。しかし、米軍の「透明性を持ちたい」との言葉とは裏腹に、その後については、ほとんど連絡がない状態だ。米軍は29日から9月5日まで、ハワイから「専門家」を呼び調査したと伝えてきたが、内容については一切明らかにしていない。これでは、他の事故と同様に、あいまいなままで幕引きをするのではないかと思わざるをえない。
 東京新聞9月25日の記事「相模補給廠 爆発火災から1カ月 地位協定で市に情報来ず」にも問題点がまとめられていますので、参考までに引用します。
 また、8月25日から始まった相模原市議会では、本会議の代表質問、基地対策特別委員会等で議論、9月30日の最終日に、米軍宛ての決議、政府、国会宛ての意見書を採択した。


東京新聞 2015年9月25日付 より